( 香水工場の )
香る生活
香水瓶の歴史#10 中世ヨーロッパのガラス
香水瓶の話はまたいつか
本当は香水瓶について書いていたのですが、いつの間にか、ガラスの歴史の記事になり、専門外の領域にはまりこんで苦しんでおります。
「ガラスの歴史」といった感じの本を買ってきて読んでみましたが、ガラスはやはり芸術家の感性をくすぐる何かがある素材なんですね。歴史書ながら装飾性や芸術性の視点がまぶしかったです。
本題の「香水瓶」ですが、今回はガラスのことだけ話が長くなり疲れ果てましたので、またいつか書きます。本日はガラスの歴史、最終章。
ガラス文明の衰退
前回はローマ時代にガラス技法のビッグバンが起き、ガラス文明が一気に開花した話でした。
しかし、ローマ時代が東西分裂(395年)、ゲルマン人の侵入による西ローマ帝国滅亡(476)後、ガラス文明は急速に萎みます。
東ローマ帝国に移住したガラス職人も多く東ローマ帝国やイスラム諸国で生き延びますが、めぼしいガラス製品の大量生産は途絶えてしまいます。
一つには原罪思想で禁欲的なキリスト教がローマ時代以降、ヨーロッパの支配的宗教になり生活規範のバックボーンになったことで贅沢・華やかで豪華なガラス製品が敬遠されたことが大きいと思われます。
ステンドグラス
もっともすべてのガラス文化が衰退したわけではなく、色彩豊かなステンドグラス(板ガラス)が12世紀、東ローマ帝国で発明されヨーロッパ中でブームとなります。
その神秘的な輝きと厳かさの効果から教会建造物の重要な装飾美術・装飾技法としてキリスト教に取り入れられました。
中世ヨーロッパは、なにはさておき、キリスト教の時代。教会の権力機構に取り入れられた文化や文物は大きな発展の要因になりますし、そうでないものは憂き目をみます。
ヴェネツィアン・グラス
一方、小国ながら世界を相手にビッグビジネスを展開し巨万の富を築いた「アドリア海の女王」ヴェネツィア共和国では、かの有名なヴェネツィア・グラスが作り出されます。ヴェネツィアン・グラスと呼んだ方がいいのでしょうか。
ヴェネツィア共和国の勃興は塩野七海さんの著作で日本でも広く知られるようになりましたが、世界史に残る特筆すべき国家でした。
私も『海の都の物語』を読みふけりました。ヴェネツィアは現在では凄い豪華な観光地になっています。
ヴェネツィア・グラスもお土産屋さんの棚に並んでいますが、当時はヴェネツィアの国際貿易と支えた物資でした。
ヴェネツィアン・グラスの特徴は添加物(コバルトやマンガン)の工夫による豊かな色彩と極限の薄さ、強さ、そして派手な装飾性です。
国家の戦略物資
ヴェネツィアン・グラスは、当時ヴェネツィア主要輸出産物の一つ。
現代風に言えば、国家の戦略物資だったわけでガラス製法の技術拡散や漏洩を恐れたヴェネツィア政府はガラス職人達をヴェネツィアに隣接するムラーノ島に強制移住(1291年)し、事実上の軟禁政策を実施したことは有名なエピソードです。
ムラーノ島全体が、当時の世界最高峰のガラス工房であり最高級ガラス生産工場となっていました。ムラーノガラスは現代においてもガラスのブランドです。
職人や芸術家同士の集合(コンセントレーション。電気街の秋葉原や芸術家のNYソーホーのような状況・・・どちらも変貌してしまいましたが)が、切磋琢磨によってさらに技術を高め合う効果があったことは事実です。
しかしながら、強制的・物理的に技術者や職人を囲い込んでも結果的に技術の拡散を防止することができなかったことは歴史が示す一つの教訓と感じられます。
北方に移るガラス中心地
ヴェネツィアン・グラスの技法とノウハウは北ヨーロッパへと伝わり、フランス・ドイツ・ボヘミアなどの土地でさらなら発展を遂げます。
優れた原材料が豊富に産出する地域(フランス・ドイツ・ボヘミア)やイギリスなどの大消費地においてガラス工房が多く開かれました。
もともと原料や製造資材に恵まれないヴェネツィアに強大なガラス産業を独占的につなぎ止めるだけの力はなかったのです。
「富を生み出すモノは必ず世界との競争に巻き込まれる」という事実も歴史が示す教訓ですね。
この記事は#10
香水瓶の歴史#10 中世ヨーロッパのガラス
香水瓶の歴史#9 ローマ時代のガラス3
香水瓶の歴史#8 ローマ時代のガラス2
香水瓶の歴史#7 ローマ時代のガラス1
香水瓶の歴史#6 ギリシア時代のガラス
香水瓶の歴史#5 透明ガラス瓶の出現
香水瓶の歴史#4 ガラス瓶の起源
香水瓶の歴史#3 香水瓶がガラスである理由
香水瓶の歴史#2 聖書の記録された香料
香水瓶の歴史#1 香水瓶は豪奢の象徴
(2010-03-13)
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