( 香水工場の )
香る生活
武蔵野を語るシリーズ・・玉川上水
この水路が武蔵野を劇的に変えた、よかったのかどうか・・ (2021/12/12)
( 当社がある東京都国分寺市の上空の航空写真。画面を横断しているグリーンベルトが玉川上水。玉川上水は新宿まで続く。右半分の大きめの施設は「小平公園」「津田塾大学」「一橋大学 小平キャンパス」。写真ではわかりにくいが左側に「武蔵美術大学」も見えている・・ [©Google Maps] )
古代の武蔵野は、猛獣がほとんど存在せず、毒ヘビや毒草も少なく、多くの動植物が共生した森でした。
文明化とともに森は減少しましたが、武蔵野の美しさは未だわずかに残ります。
その残された森の一つが武蔵野を横断するグリーンベルト「玉川上水」(たまがわじょうすい)です。
玉川上水は、東京都の奥に位置する羽村市から都心の新宿区まで流れる人工の水路です。
「上水」は水道水を意味します。
羽村市内の多摩川から取水し、それを江戸に供給したわけですが、その偉業を成し遂げた人物が玉川兄弟。
水路は玉川上水と呼ばれるようになりました。
( 現在では浅い小川風情だが、昭和30年ころは、脈々と流れる急流だったらしい。玉川上水は都会に残された森林地帯となり、多くの野生の動植物を育むサンクチュアリとなっている )
かすかな傾斜が続く武蔵野丘陵地帯の尾根に沿って開削された水路で、標高差92mを自然流下のみで流れます。
この尾根の稜線は、地理用語では「分水界」(ぶんすいかい)と言います。雨水の流れる方向を真逆に別けるラインです。
驚異的な測量技術が駆使された難工事でした。
(ほぼ平らに見える丘陵の尾根を、近代的な測量技術がないこの時代、どうやって測量できたのか、ナゾとなっている)
玉川上水のルートである尾根伝いの両サイドを地理的に見ると、南側の谷部分が多摩川であり、北側の谷部分が荒川です。
丘陵地帯の尾根を通ったことで、多摩川方面・荒川方面への分水がともに容易であり、時代とともに、玉川上水は、樹木の枝のように分水されていきました。
たとえば、東京都立川市から、埼玉県の新座市・志木市まで伸びる「野火止用水」は、それまで水不足だった地域に生活用水を供給し、人々の生活圏を拡大させました。
玉川上水の開削は、江戸時代初期1653年。そして、昭和40年(1965年)まで上水道として利用されていました。
現在、玉川上水を見ると素堀の場所が多く、自然の川という印象を抱きがちです。
しかし、異なる点は水面が地面より数メートル低いこと、両脇が森林に覆われていること。
川幅6m、両脇の森林地帯含め全体で幅20mくらいの森林ベルトが、羽村から四谷まで延々43キロ続きます。
昭和40年、新宿の淀橋浄水場(現在、ここに東京都庁が建つ)が廃止されると同時に、玉川上水は多くの区間で上水道としての役割を終えました。
江戸時代、江戸は百万都市として世界最大級の大都市になりますが、江戸を支えた6大上水のなかで、玉川上水は圧倒的な水量で江戸時代全期及び現代に至るまで東京を支えた生命線でした。
6大上水の総延長は150キロとされ当時世界最大の水道システムでした。
東京都水道局が管理する羽村取水所は、現在でも使用され、その水は東京の人々の生命を繋いでいます。
(東京都1200万人の生命と生活は、8割が荒川・利根川水源、残り2割が多摩川水源に依存している)
取水所は一般に公開されています。
はじめてそれを見たとき、震えるような感動を覚えました。
(これが、私たちの命をつなぐ水か・・)
胸中、感謝の念が拡がった。
そして、妄想もしました・・
(もしテロリストにここが襲われたら東京は壊滅する)
このとき、私の近くには、数十人の赤白帽の小学生も見学に来ていましたが、先生の話が退屈そうでした。
( 羽村取水所。奥に見える川が多摩川 )
一連の武蔵野を語るシリーズで、現代ハイウエイに近い古代の東山道(とうさんどう)を取り上げたとき、ローマ時代のアッピア街道との比較をしました。
おもしろことに玉川上水も、同じくローマのアッピア水道との比較が興味深い。
ローマは今でも街中にローマ時代の水道遺跡が点在しています。
ローマには圧倒的なオブジェや観光名所がありすぎて、水道遺跡の観光客はあまりいませんが、全世界の水道ファン巡礼の地ですね、とボクは思う。
私自身、ローマ郊外でアッピア水道の遺跡を見たとき、あまりに感動に仁王立ちしたまま長い時間眺めておりました。
( これを見たとき、言葉を失った )
ローマ水道の偉大さは水質を維持するため、はるか山中の水源地帯からローマ中心部までの数十キロを石造りの高架橋で通したこと。
紀元前4世紀の頃です・・ああー、彼らはすでに高架橋にしていたか、この部分は、やはりローマにかなわないと思いましたね。
地上を流す水路の問題は水質汚染リスクです。
徳川幕府もこの問題は常に悩みだったらしく、水番人や監視役人を増やして強権をもって対処することで水質維持を行っていました。
ところが明治政府になって、物資輸送のため、玉川上水内で船の通行を一時的に許可していた時期があります、水質汚染は、やはり進んだようです。
また、玉川上水に入水自殺した作家・太宰治氏のように安全面でも地上の水道ルートはリスクが高い。
現在、東京の水道ルートは、おおむね、地下パイプライン方式になっています。
玉川上水のもう一つの比較対象として、ロンドンのニューリバー水道もおもしろいです。
玉川上水の完成40年前、1613年、ロンドンではニューリバー水道が完成します。
ローマの水道システムを除けば、近代的な水道システムとして、ニューリバー水道と玉川上水は、当時世界最先端・最大規模と思われます。
(ただただ、紀元前のローマ水道がどれだけ凄いか、逆に思い知らされますけどね)
当時ロンドンの人口は25万人。ロンドン北部60キロ地点の湧水やリー川を源泉として開削されました。
(ロンドンを縦断するテムズ川はすでに汚染が進んでいたことが理由と思われる)
上水道は「ニューリバー」(New River)と命名されました。
文字通り「新しい川」ですが、固有名詞化し、現在でも多くの部分が現役の水道施設として使用されています。
こちらの驚くべきことは、標高差わずか6m。
これを自然流下のみで60キロも流しているのです。こちらも驚異的な測量技術に圧倒されます。
玉川上水は、野火止用水など多くの分水を行い、水に恵まれなかった武蔵野に農業用水・生活用水を供給する革命的役割を果たしました。
作物が増え、村は発展し人口は増え、そして、原野の開墾はさらに増えるという循環を繰り返すようになります。
もし玉川上水がなかったら?・・武蔵野の開墾も進まず、武蔵野は巨大な原生林地帯として現代に受け継がれていたはず。
文明化されたことを喜ぶべきか、森が豊かなまま残されていた方がよかったか?
どちらだろう・・と思ったりします。
現在、玉川上水は都会に残された極端に細長い森林地帯となり、多くの野生の動植物を育むサンクチュアリとなっています。
武蔵野を革命的に開拓した玉川上水が、現在では、武蔵野を残す重要な緑地や文化遺産となっていることも皮肉と言えば皮肉です。
しかし、玉川上水は、紛れもなく後世に残していきたい武蔵野の森だと思います。
次回は、人と生物の生命をつないだ武蔵野の偉大な地下水について語ろう。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-12-12)
( 当社がある東京都国分寺市の上空の航空写真。画面を横断しているグリーンベルトが玉川上水。玉川上水は新宿まで続く。右半分の大きめの施設は「小平公園」「津田塾大学」「一橋大学 小平キャンパス」。写真ではわかりにくいが左側に「武蔵美術大学」も見えている・・ [©Google Maps] )
古代の武蔵野は、猛獣がほとんど存在せず、毒ヘビや毒草も少なく、多くの動植物が共生した森でした。
文明化とともに森は減少しましたが、武蔵野の美しさは未だわずかに残ります。
その残された森の一つが武蔵野を横断するグリーンベルト「玉川上水」(たまがわじょうすい)です。
驚異の水道
玉川上水は、東京都の奥に位置する羽村市から都心の新宿区まで流れる人工の水路です。
「上水」は水道水を意味します。
羽村市内の多摩川から取水し、それを江戸に供給したわけですが、その偉業を成し遂げた人物が玉川兄弟。
水路は玉川上水と呼ばれるようになりました。
( 現在では浅い小川風情だが、昭和30年ころは、脈々と流れる急流だったらしい。玉川上水は都会に残された森林地帯となり、多くの野生の動植物を育むサンクチュアリとなっている )
丘陵地帯を新宿まで通した上水道
かすかな傾斜が続く武蔵野丘陵地帯の尾根に沿って開削された水路で、標高差92mを自然流下のみで流れます。
この尾根の稜線は、地理用語では「分水界」(ぶんすいかい)と言います。雨水の流れる方向を真逆に別けるラインです。
驚異的な測量技術が駆使された難工事でした。
(ほぼ平らに見える丘陵の尾根を、近代的な測量技術がないこの時代、どうやって測量できたのか、ナゾとなっている)
玉川上水のルートである尾根伝いの両サイドを地理的に見ると、南側の谷部分が多摩川であり、北側の谷部分が荒川です。
丘陵地帯の尾根を通ったことで、多摩川方面・荒川方面への分水がともに容易であり、時代とともに、玉川上水は、樹木の枝のように分水されていきました。
たとえば、東京都立川市から、埼玉県の新座市・志木市まで伸びる「野火止用水」は、それまで水不足だった地域に生活用水を供給し、人々の生活圏を拡大させました。
近年まで現役だった水道水路
玉川上水の開削は、江戸時代初期1653年。そして、昭和40年(1965年)まで上水道として利用されていました。
現在、玉川上水を見ると素堀の場所が多く、自然の川という印象を抱きがちです。
しかし、異なる点は水面が地面より数メートル低いこと、両脇が森林に覆われていること。
川幅6m、両脇の森林地帯含め全体で幅20mくらいの森林ベルトが、羽村から四谷まで延々43キロ続きます。
昭和40年、新宿の淀橋浄水場(現在、ここに東京都庁が建つ)が廃止されると同時に、玉川上水は多くの区間で上水道としての役割を終えました。
はじめて取水所を見たときの感動
江戸時代、江戸は百万都市として世界最大級の大都市になりますが、江戸を支えた6大上水のなかで、玉川上水は圧倒的な水量で江戸時代全期及び現代に至るまで東京を支えた生命線でした。
6大上水の総延長は150キロとされ当時世界最大の水道システムでした。
東京都水道局が管理する羽村取水所は、現在でも使用され、その水は東京の人々の生命を繋いでいます。
(東京都1200万人の生命と生活は、8割が荒川・利根川水源、残り2割が多摩川水源に依存している)
取水所は一般に公開されています。
はじめてそれを見たとき、震えるような感動を覚えました。
(これが、私たちの命をつなぐ水か・・)
胸中、感謝の念が拡がった。
そして、妄想もしました・・
(もしテロリストにここが襲われたら東京は壊滅する)
このとき、私の近くには、数十人の赤白帽の小学生も見学に来ていましたが、先生の話が退屈そうでした。
( 羽村取水所。奥に見える川が多摩川 )
古代ローマのアッピア水道
一連の武蔵野を語るシリーズで、現代ハイウエイに近い古代の東山道(とうさんどう)を取り上げたとき、ローマ時代のアッピア街道との比較をしました。
おもしろことに玉川上水も、同じくローマのアッピア水道との比較が興味深い。
ローマは今でも街中にローマ時代の水道遺跡が点在しています。
ローマには圧倒的なオブジェや観光名所がありすぎて、水道遺跡の観光客はあまりいませんが、全世界の水道ファン巡礼の地ですね、とボクは思う。
私自身、ローマ郊外でアッピア水道の遺跡を見たとき、あまりに感動に仁王立ちしたまま長い時間眺めておりました。
( これを見たとき、言葉を失った )
ローマ水道の偉大さは水質を維持するため、はるか山中の水源地帯からローマ中心部までの数十キロを石造りの高架橋で通したこと。
紀元前4世紀の頃です・・ああー、彼らはすでに高架橋にしていたか、この部分は、やはりローマにかなわないと思いましたね。
地上を流す水路の問題は水質汚染リスクです。
徳川幕府もこの問題は常に悩みだったらしく、水番人や監視役人を増やして強権をもって対処することで水質維持を行っていました。
ところが明治政府になって、物資輸送のため、玉川上水内で船の通行を一時的に許可していた時期があります、水質汚染は、やはり進んだようです。
また、玉川上水に入水自殺した作家・太宰治氏のように安全面でも地上の水道ルートはリスクが高い。
現在、東京の水道ルートは、おおむね、地下パイプライン方式になっています。
ロンドンのニューリバー水道
玉川上水のもう一つの比較対象として、ロンドンのニューリバー水道もおもしろいです。
玉川上水の完成40年前、1613年、ロンドンではニューリバー水道が完成します。
ローマの水道システムを除けば、近代的な水道システムとして、ニューリバー水道と玉川上水は、当時世界最先端・最大規模と思われます。
(ただただ、紀元前のローマ水道がどれだけ凄いか、逆に思い知らされますけどね)
当時ロンドンの人口は25万人。ロンドン北部60キロ地点の湧水やリー川を源泉として開削されました。
(ロンドンを縦断するテムズ川はすでに汚染が進んでいたことが理由と思われる)
上水道は「ニューリバー」(New River)と命名されました。
文字通り「新しい川」ですが、固有名詞化し、現在でも多くの部分が現役の水道施設として使用されています。
こちらの驚くべきことは、標高差わずか6m。
これを自然流下のみで60キロも流しているのです。こちらも驚異的な測量技術に圧倒されます。
玉川上水の功罪
玉川上水は、野火止用水など多くの分水を行い、水に恵まれなかった武蔵野に農業用水・生活用水を供給する革命的役割を果たしました。
作物が増え、村は発展し人口は増え、そして、原野の開墾はさらに増えるという循環を繰り返すようになります。
もし玉川上水がなかったら?・・武蔵野の開墾も進まず、武蔵野は巨大な原生林地帯として現代に受け継がれていたはず。
文明化されたことを喜ぶべきか、森が豊かなまま残されていた方がよかったか?
どちらだろう・・と思ったりします。
現在、玉川上水は都会に残された極端に細長い森林地帯となり、多くの野生の動植物を育むサンクチュアリとなっています。
武蔵野を革命的に開拓した玉川上水が、現在では、武蔵野を残す重要な緑地や文化遺産となっていることも皮肉と言えば皮肉です。
しかし、玉川上水は、紛れもなく後世に残していきたい武蔵野の森だと思います。
次回は、人と生物の生命をつないだ武蔵野の偉大な地下水について語ろう。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-12-12)
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