( 香水工場の )
香る生活
シャネルNo.5のちょっと悲しい話
調香師エルネスト・ボーとココ・シャネルの話 (2021/07/05)
最近、シャネルNo.5に関する記事をよく目にするな、と思っておりました。
今年シャネルNo.5はリリースから100周年。おお、そうであった。
世界の有名女性誌が「シャネルNo.5」の特集を組んでいるし、シャネル社(Chanel SA)では、記念動画なども制作しており、世はさながら「No.5まつり」の様相を呈している。
シャネルNo.5は、他社様の製品、名実ともに無関係であるボクにこの製品を語る資格はない。
しかし、No.5クラスになると、もはや一製品ではなく、社会現象であり文化。
そんな側面もある、取り上げることを許して頂きたい。
調香師エルネスト・ボー氏のことに関して、まるで自分で見てきたかのような口調だが、大野斉子氏の著作からの受け売りがかなり含まれている。
( 『シャネルNo.5の謎』(大野斉子) )
それと「Perfume Projects」というサイトの
(Lightyears Collection) Le No.1 Rallet から多くの情報とヒントをいただいた。
世界一有名な香水、それは間違いない。
その理由は、今からちょうど100年前の1921年5月5日にリリースし、センセーショナルな人気を得ただけでなく、現在でも売れ続けているという奇跡。
その歴史の長さが凄い、他に例がない。1900年代前半、名香と呼ばれた香水は数多くあったが、ほぼ廃盤となっている。
シャネルNo.5の処方は「1921年から変わっていない」と解説する人がたまにいるが、違うと思う。
香水業界は、成分に関する非常に高い自主規制(The IFRA Standards)を自ら課しており、使えなくなる原料は多く、長年継続するためには、何度か処方変更が迫られる。
わずか20年でも同じ処方で製造し続けることは厳しい。
とくにたくさんの種類の成分を配合する製品ほど影響を受けやすい。
それに人々の好みも変化する。
No.5も、当然変更されたと考える方が自然だし、シャネル社も処方変更を認める発言をどこかでしていたと記憶している。
だから、ココ・シャネルが愛した100年前と完全に同じNo.5を、現代の我らは体験できないが、No.5のテイストは今でも味わえると思う。
香水業界を動かした逸品であり、またその力は未だ健在である。
ボクは、No.5のボトルを生産しているボトル工場のマネージャーさんと話したことがある。
彼は、No.5を香水というより「Industry」(産業)と口にした。
新鮮だった。No.5の凄さが、業界の裏側から伝わってくる印象だ。
よく言われることが、合成香料である「アルデヒド」を配合したこと・・実はポイントはここはでない。
アルデヒドは当時、すでに他社でも使われていた。
アルデヒドを「高濃度に」配合したこと、そして、多彩なアルデヒドを「ミックスして」配合した点がポイントである。
No.5のやり方を「アルデヒド・カクテル」と呼ぶ人もいる。
どういう使い方がなされたのかビジュアルに伝わる言い回しと思う。
アルデヒドとは個別の成分名でなく、有機化合物の一カテゴリーであり種類は無数にある。
アルデヒドの話は、割愛するが、この成分もおもしろいので、後日、別の記事を書きたい。
専門的になるが、No.5ではアルデヒドC-10、C-11、C-12MNAなどが合わせられた。
これらのアルデヒド自体は、加齢臭のようなオイリーな香りだが、これらがジャスミンやローズの天然香料のとげとげしさを殺ぎ、幻想的な香りへと引き上げ、かつ香りに持続力を与えるのだ。
現代人には、慣れた香りであり新鮮さはないはずだが、当時の人には、それまでの天然香料だけの香りとは違った、なんとも言えないふしぎな香りとして驚きだったに違いない。
No.5のリリースは「No.5以前か? No.5以降か?」と、香水の歴史を分ける事件となった。
現代で言えば「スマホ前か? スマホ後か?」で社会が微妙に変化した現象と似ている。
ボトルデザインも新しかった。
それまでの香水は王侯貴族向け、古典的で華美な装飾が普通だったが、ココらしいシンプルな角瓶は、斬新だった。
ココは、女性をコルセットから解放し、王侯貴族ファッションの過剰な装飾を終わらせ、現代ファッションの基礎を切り開いたデザイナーだが、香水もココ・シャネルによって「民主化」「現代化」の洗礼を受けた。
ここからが、おもに本からの受け売りの部分である。
No.5には、実はお手本となる香水が存在した。それが帝政ロシア時代の「ラレーNo.1」。
シャネルNo.5の調香師は、フランス人の父とロシア人の母をもつエルネスト・ボー氏。
モスクワ生まれモスクワ育ちのロシア系フランス人。
第一次世界大戦ではフランス軍に従軍したが、彼自身の心のバックグラウンドはロシアであり、終生ロシアへの愛は変わらなかった。
ラレーNo.1を制作したラレー社は、1800年代にフランス人によって設立された化粧品会社で、ロシア人からすれば外資系企業である。
ラレー社は、ロシアの最古の香水会社とされ、帝政ロシア時代のメジャーな化粧品会社だった。
エルネスト・ボーのボー家は、ラレー社の経営一族ではなかったが、エルネストのお兄さんは会社代表であり、エルネストは調香師としてラレー社に参加した。
エルネストが、ここで制作した香りが「ラレーNo.1」である。
ラレーNo.1には、アルデヒドが配合されており、No.5との類似性が非常に高いことが近年の研究で判明している。
つまり、ラレーNo.1は、シャネルNo.5の前進だったし兄弟関係にある。そして、そのどちらもエルネストが制作した香りだった。
(ラレーNo.1は、残念ながら断絶しており現在では販売されていない)
エルネストによると、ロシア革命(1917年)当時、ロシアの香水会社は300社程度あり、ロシアからヨーロッパへの香水の輸出も盛んだった。
しかし、革命後ソ連では、香水は貴族やブルジョワジーの贅沢品とされ、香水会社のほとんどが消滅し、ラレー社は政府に接収され、工場は「国立石鹸製造工場」となった。香水製造は断絶した。
香水製造技術の先進性や香水会社の多さと考えれば、ロシア革命以前、ロシアは世界の有数の香水先進国であり、すぐれた香水の生産地であったことがわかる。
第一次世界大戦(1814年-1918年)中、フランス軍に従軍していたエルネストは、ロシア北西部に派遣されていたが、戦後はフランスに帰還し、二度とロシアに戻ることはなかった。
この戦争の帰還時、北欧の荒野で見た湖や川の風景や香りが、シャネルNo.5の創作へと結実することになる。
No.5を多少詳しく解説した文章には必ず出てくる逸話である。
エルネストが1942年、フランス化学会館で行った講演録にある話である。
ココには多数の伝記や回想録が残されているが、エルネスト本人による回想はこの講演録が唯一であり、彼は自己を語ることが少ない人だった。
No.5のモチーフとなるこの「北極圏にある田舎の湖や川」が、具体的にどこなのかは不明だが、エルネストが所長をつとめていた捕虜収容所の可能性が高い。
エルネストが置かれた状況を知らずに、この部分だけを読むと、美しい北極圏の湖のような印象だが、大野さんの本を読むと、印象はかなり違ってくる。
大野さんは、捕虜収容所の生存者の手記からエルネストの状況を解明しようとしており、この部分は、ボクには、他の文献では見たことがない新事実だった。
北極圏の凍土で覆われる孤島の捕虜収容所は、極限状態の人間たちの飢餓と暴力と死の場所だった。
エルネストは、戦争の残忍さを加害者として体験したと思われる。彼は、その後、終生収容所のことを語ることはなかった。
「茫洋とした湖面に浮かぶ輝きにヒントを得た」なんていうきれいな話じゃなくて、No.5に込められた美しさは、極限状態の人間がギリギリのところで見た”救い”ではなかったか、とボクは空想した。
第一次大戦後、エルネストは、ロシアからフランスに拠点を移し調香活動を再開する。
知人を通してココ・シャネルと知り合い、No.1からNo.5と、No.20からNo.24の10種類の香水を提案した。
ココの制作依頼内容は、伝記作家や伝え聞いた知人たちの話をまとめると次のようなものだったという。
しかし、ココは誇張や事実誤認が多い人らしく、実際の依頼内容はよくわからない。
エルネストの中には、すでに北極圏の湖面を漂う香りのイメージができていたので、手持ちの試作を提案したのではないかと考えられる。
ココは、10種類の中から「5番」と命名された香りを選ぶ。このときの会話がエルネストによって残されている。
エルネストの発言は、他の資料と付き合わせても整合性があり、大野さんは事実と考えている。
おや?と思わせる部分である。
ココは、数字の「5」にこだわりがあったのだ。ココにとって「5」はマジックナンバー、幸運の数字。
香りも、もちろん、気に入ったのだろう。
しかし、「シャネルNo.5」が地上に産み落とされた瞬間の決定打は、縁起担ぎだった。
案外、歴史の転換点はこういう縁や偶然は多い。人智では計り知れない力を感じる。
ところで、「シャネルNo.5」はココ・シャネルの名前を冠しているが、ココは、No.5の販売権を早々と実業家のヴェルテメール兄弟に渡しており、ココが手にする利益はわずか10%であった。
No.5の奇跡的な成功の結果、ココは権利譲渡を後悔し、それを取り戻そうと、そこから20年以上にわたる長い泥沼の法廷内闘争・法廷外闘争がはじまる。
しかし、ヴェルテメール兄弟のマーケティングは、大胆かつ秀逸であり、No.5のヒットの大部分は、ヴェルテメール兄弟に手腕によるとする意見も多い。
ヴェルテメール兄弟がなければ、はたしてNo.5が現在でも生き残れていたか、今となってはわからない。
エルネストは、No.5の成功により名声を得たが、No.5が継続的に生み出す莫大な利益の恩恵を受けたかという疑問は、ココとの契約内容が不明のため、よくわからない。
おそらく恩恵は限定的・一時的だっただろう。
エルネストは、No.5がレジェンドとなり名声を得た後も、No.5のことも自分のこともほとんど語らなかった。
私生活では妻に逃げられ、自宅は帝政ロシア時代の文物で博物館のように埋め尽くされていたという。
過去へのノスタルジーを感じていたのだろうか。
ココ・シャネルは、香水の歴史を変える香水を手に入れながら、実質自分のものではなく、実業家として脂の乗った20年を無駄な闘争に明け暮れた。
老年になり、ココはデザイナーとしての腕が落ち、評論家からは酷評されるようになるが、その失意に手をさしのべ励ましたのは、長年の敵であるピエール・ヴェルテメールだったという。
1971年、87才で亡くなる。
最後の言葉は、お手伝いさんに言ったと伝えられている。
彼女の覚悟が伝わってくるではないか。
第二次世界大戦中、ナチスへの協力とスパイ活動のため、ココの亡骸はフランスでの埋葬が許されずスイスで眠っている。
No.5は、今年100年を迎えた。
自分を生み出してくれた人々を、今、香水「シャネルNo.5」は、どんな気持ちで眺めているのか?とふと思ったりする。
(2021-07-05)
今、なぜ特集記事が多い?
最近、シャネルNo.5に関する記事をよく目にするな、と思っておりました。
今年シャネルNo.5はリリースから100周年。おお、そうであった。
世界の有名女性誌が「シャネルNo.5」の特集を組んでいるし、シャネル社(Chanel SA)では、記念動画なども制作しており、世はさながら「No.5まつり」の様相を呈している。
シャネルNo.5は、他社様の製品、名実ともに無関係であるボクにこの製品を語る資格はない。
しかし、No.5クラスになると、もはや一製品ではなく、社会現象であり文化。
そんな側面もある、取り上げることを許して頂きたい。
調香師エルネスト・ボー氏のことに関して、まるで自分で見てきたかのような口調だが、大野斉子氏の著作からの受け売りがかなり含まれている。
( 『シャネルNo.5の謎』(大野斉子) )
それと「Perfume Projects」というサイトの
(Lightyears Collection) Le No.1 Rallet から多くの情報とヒントをいただいた。
シャネルNo.5とは?
世界一有名な香水、それは間違いない。
その理由は、今からちょうど100年前の1921年5月5日にリリースし、センセーショナルな人気を得ただけでなく、現在でも売れ続けているという奇跡。
その歴史の長さが凄い、他に例がない。1900年代前半、名香と呼ばれた香水は数多くあったが、ほぼ廃盤となっている。
シャネルNo.5の処方は「1921年から変わっていない」と解説する人がたまにいるが、違うと思う。
香水業界は、成分に関する非常に高い自主規制(The IFRA Standards)を自ら課しており、使えなくなる原料は多く、長年継続するためには、何度か処方変更が迫られる。
わずか20年でも同じ処方で製造し続けることは厳しい。
とくにたくさんの種類の成分を配合する製品ほど影響を受けやすい。
それに人々の好みも変化する。
No.5も、当然変更されたと考える方が自然だし、シャネル社も処方変更を認める発言をどこかでしていたと記憶している。
だから、ココ・シャネルが愛した100年前と完全に同じNo.5を、現代の我らは体験できないが、No.5のテイストは今でも味わえると思う。
香水業界を動かした逸品であり、またその力は未だ健在である。
ボクは、No.5のボトルを生産しているボトル工場のマネージャーさんと話したことがある。
彼は、No.5を香水というより「Industry」(産業)と口にした。
新鮮だった。No.5の凄さが、業界の裏側から伝わってくる印象だ。
No.5は、どこが新しかったか?
よく言われることが、合成香料である「アルデヒド」を配合したこと・・実はポイントはここはでない。
アルデヒドは当時、すでに他社でも使われていた。
アルデヒドを「高濃度に」配合したこと、そして、多彩なアルデヒドを「ミックスして」配合した点がポイントである。
No.5のやり方を「アルデヒド・カクテル」と呼ぶ人もいる。
どういう使い方がなされたのかビジュアルに伝わる言い回しと思う。
アルデヒドとは個別の成分名でなく、有機化合物の一カテゴリーであり種類は無数にある。
アルデヒドの話は、割愛するが、この成分もおもしろいので、後日、別の記事を書きたい。
専門的になるが、No.5ではアルデヒドC-10、C-11、C-12MNAなどが合わせられた。
これらのアルデヒド自体は、加齢臭のようなオイリーな香りだが、これらがジャスミンやローズの天然香料のとげとげしさを殺ぎ、幻想的な香りへと引き上げ、かつ香りに持続力を与えるのだ。
現代人には、慣れた香りであり新鮮さはないはずだが、当時の人には、それまでの天然香料だけの香りとは違った、なんとも言えないふしぎな香りとして驚きだったに違いない。
香水の歴史を塗り替えた事件
No.5のリリースは「No.5以前か? No.5以降か?」と、香水の歴史を分ける事件となった。
現代で言えば「スマホ前か? スマホ後か?」で社会が微妙に変化した現象と似ている。
ボトルデザインも新しかった。
それまでの香水は王侯貴族向け、古典的で華美な装飾が普通だったが、ココらしいシンプルな角瓶は、斬新だった。
ココは、女性をコルセットから解放し、王侯貴族ファッションの過剰な装飾を終わらせ、現代ファッションの基礎を切り開いたデザイナーだが、香水もココ・シャネルによって「民主化」「現代化」の洗礼を受けた。
ロシアの香水「ラレーNo.1」
ここからが、おもに本からの受け売りの部分である。
No.5には、実はお手本となる香水が存在した。それが帝政ロシア時代の「ラレーNo.1」。
シャネルNo.5の調香師は、フランス人の父とロシア人の母をもつエルネスト・ボー氏。
モスクワ生まれモスクワ育ちのロシア系フランス人。
第一次世界大戦ではフランス軍に従軍したが、彼自身の心のバックグラウンドはロシアであり、終生ロシアへの愛は変わらなかった。
ラレーNo.1を制作したラレー社は、1800年代にフランス人によって設立された化粧品会社で、ロシア人からすれば外資系企業である。
ラレー社は、ロシアの最古の香水会社とされ、帝政ロシア時代のメジャーな化粧品会社だった。
エルネスト・ボーのボー家は、ラレー社の経営一族ではなかったが、エルネストのお兄さんは会社代表であり、エルネストは調香師としてラレー社に参加した。
エルネストが、ここで制作した香りが「ラレーNo.1」である。
ラレーNo.1には、アルデヒドが配合されており、No.5との類似性が非常に高いことが近年の研究で判明している。
つまり、ラレーNo.1は、シャネルNo.5の前進だったし兄弟関係にある。そして、そのどちらもエルネストが制作した香りだった。
(ラレーNo.1は、残念ながら断絶しており現在では販売されていない)
香水先進国だったロシア
エルネストによると、ロシア革命(1917年)当時、ロシアの香水会社は300社程度あり、ロシアからヨーロッパへの香水の輸出も盛んだった。
しかし、革命後ソ連では、香水は貴族やブルジョワジーの贅沢品とされ、香水会社のほとんどが消滅し、ラレー社は政府に接収され、工場は「国立石鹸製造工場」となった。香水製造は断絶した。
香水製造技術の先進性や香水会社の多さと考えれば、ロシア革命以前、ロシアは世界の有数の香水先進国であり、すぐれた香水の生産地であったことがわかる。
No.5のコンセプト
第一次世界大戦(1814年-1918年)中、フランス軍に従軍していたエルネストは、ロシア北西部に派遣されていたが、戦後はフランスに帰還し、二度とロシアに戻ることはなかった。
この戦争の帰還時、北欧の荒野で見た湖や川の風景や香りが、シャネルNo.5の創作へと結実することになる。
私が戦争から帰還するときでした。
私は白夜の時期に北極圏にあるヨーロッパ北部の地域の田舎を去ろうとしました。
そこで湖や川がたいへんみずみずしい香りを発散させていました。
私はこのノートを記憶にとどめ、実現しました
No.5を多少詳しく解説した文章には必ず出てくる逸話である。
エルネストが1942年、フランス化学会館で行った講演録にある話である。
ココには多数の伝記や回想録が残されているが、エルネスト本人による回想はこの講演録が唯一であり、彼は自己を語ることが少ない人だった。
No.5のモチーフとなるこの「北極圏にある田舎の湖や川」が、具体的にどこなのかは不明だが、エルネストが所長をつとめていた捕虜収容所の可能性が高い。
戦争体験
エルネストが置かれた状況を知らずに、この部分だけを読むと、美しい北極圏の湖のような印象だが、大野さんの本を読むと、印象はかなり違ってくる。
大野さんは、捕虜収容所の生存者の手記からエルネストの状況を解明しようとしており、この部分は、ボクには、他の文献では見たことがない新事実だった。
北極圏の凍土で覆われる孤島の捕虜収容所は、極限状態の人間たちの飢餓と暴力と死の場所だった。
エルネストは、戦争の残忍さを加害者として体験したと思われる。彼は、その後、終生収容所のことを語ることはなかった。
「茫洋とした湖面に浮かぶ輝きにヒントを得た」なんていうきれいな話じゃなくて、No.5に込められた美しさは、極限状態の人間がギリギリのところで見た”救い”ではなかったか、とボクは空想した。
ココ・シャネルとの出会い
第一次大戦後、エルネストは、ロシアからフランスに拠点を移し調香活動を再開する。
知人を通してココ・シャネルと知り合い、No.1からNo.5と、No.20からNo.24の10種類の香水を提案した。
ココの制作依頼内容は、伝記作家や伝え聞いた知人たちの話をまとめると次のようなものだったという。
「調香師ですら嫉妬したくなるような香水」
「夏の庭の香りがする香水」
「女性のにおいのする女性の香り」
しかし、ココは誇張や事実誤認が多い人らしく、実際の依頼内容はよくわからない。
エルネストの中には、すでに北極圏の湖面を漂う香りのイメージができていたので、手持ちの試作を提案したのではないかと考えられる。
ココは、10種類の中から「5番」と命名された香りを選ぶ。このときの会話がエルネストによって残されている。
エルネストの発言は、他の資料と付き合わせても整合性があり、大野さんは事実と考えている。
「どんな名前を付けるべきでしょう?」という質問をするとこう答えました。
「私は、服のコレクションを1年の5番目の月である5月5日に発表しています。
だからこの香水についている5の数字を残すことにしましょう。
5の数字はこの香水に幸運を運ぶことでしょう」
おや?と思わせる部分である。
ココは、数字の「5」にこだわりがあったのだ。ココにとって「5」はマジックナンバー、幸運の数字。
香りも、もちろん、気に入ったのだろう。
しかし、「シャネルNo.5」が地上に産み落とされた瞬間の決定打は、縁起担ぎだった。
案外、歴史の転換点はこういう縁や偶然は多い。人智では計り知れない力を感じる。
自分の香水なのに、自分のものではなかったNo.5
ところで、「シャネルNo.5」はココ・シャネルの名前を冠しているが、ココは、No.5の販売権を早々と実業家のヴェルテメール兄弟に渡しており、ココが手にする利益はわずか10%であった。
No.5の奇跡的な成功の結果、ココは権利譲渡を後悔し、それを取り戻そうと、そこから20年以上にわたる長い泥沼の法廷内闘争・法廷外闘争がはじまる。
しかし、ヴェルテメール兄弟のマーケティングは、大胆かつ秀逸であり、No.5のヒットの大部分は、ヴェルテメール兄弟に手腕によるとする意見も多い。
ヴェルテメール兄弟がなければ、はたしてNo.5が現在でも生き残れていたか、今となってはわからない。
エルネストのその後
エルネストは、No.5の成功により名声を得たが、No.5が継続的に生み出す莫大な利益の恩恵を受けたかという疑問は、ココとの契約内容が不明のため、よくわからない。
おそらく恩恵は限定的・一時的だっただろう。
エルネストは、No.5がレジェンドとなり名声を得た後も、No.5のことも自分のこともほとんど語らなかった。
私生活では妻に逃げられ、自宅は帝政ロシア時代の文物で博物館のように埋め尽くされていたという。
過去へのノスタルジーを感じていたのだろうか。
ココのその後
ココ・シャネルは、香水の歴史を変える香水を手に入れながら、実質自分のものではなく、実業家として脂の乗った20年を無駄な闘争に明け暮れた。
老年になり、ココはデザイナーとしての腕が落ち、評論家からは酷評されるようになるが、その失意に手をさしのべ励ましたのは、長年の敵であるピエール・ヴェルテメールだったという。
1971年、87才で亡くなる。
最後の言葉は、お手伝いさんに言ったと伝えられている。
C'est comme cela que l'on meurt
(人はこんなふうに死ぬのよ)
彼女の覚悟が伝わってくるではないか。
第二次世界大戦中、ナチスへの協力とスパイ活動のため、ココの亡骸はフランスでの埋葬が許されずスイスで眠っている。
No.5は、今年100年を迎えた。
自分を生み出してくれた人々を、今、香水「シャネルNo.5」は、どんな気持ちで眺めているのか?とふと思ったりする。
(2021-07-05)
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