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武蔵野を語るシリーズ・・国分寺
国家プロジェクトだった国分寺・・ (2021/09/03)
( 武蔵国分寺レイアウト。現代人からすれば普通の巨大なお寺ですが、当時の人々には官庁群的な存在だったでしょう - CG:関東、歴史旅行情報 )
武蔵野の中に存在する国分寺市は、当社の所在地です。
新宿から中央線で30分くらいの東京郊外にあります。当社はこの地で創業しました。
国分寺は、もともと農地や林ばかりの土地でしたが、100年前の関東大震災(1923年)後、被災した人々による移住ブームが起き、そこから中央線沿線の武蔵野は急速に変貌しました。
ボクの叔母は、昭和25年(1950年)頃、大阪から武蔵野をはじめて訪れ、あまりの林の多さに「東京のすぐ郊外なのに、恐ろしく林ばかり」で呆れた、と若い頃の経験を聞かせてくれましたが、彼女には武蔵野の美しさは響かなかったようです。
現在の武蔵野は、さらに宅地化が進み「恐ろしく林ばかり」は、もはや見る影もありません。
ずっと昔の国分寺は、古代都市・府中や鎌倉から関東エリアをつなぐ幹線道路上の政治軍事都市でした。
国分寺の地名は、もともと、奈良時代、聖武天皇によってこの地に国分寺が建立されたことがはじまりです。
武蔵国分寺は、国分寺市内に残る奈良時代の遺跡。
時の天皇・聖武天皇は、仏の力によって五穀豊穣と安定した社会秩序の実現を目指していました。
その壮大な国家プロジェクトの目玉政策が全国の「国分寺」建立構想です。
この地の国分寺は、とくに「武蔵国分寺」(むさし・こくぶんじ)と呼ばれます。
聖武天皇は、全国60カ所以上に国分寺の建立を命じましたが、その中で、武蔵国分寺は、金堂・講堂・七重塔その他からなる大型伽藍で、隣接して尼寺(にじ)も併設されました。
現代で言えば、官公庁が入る大型複合施設のようなものでしょう。
奈良・東大寺の総国分寺とともにとくに規模が大きかったようです。
( 武蔵国分寺跡・・権力を示す巨大建造物が並んでいたが、今は夢の跡 )
1333年、鎌倉幕府打倒を目指して、上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)から南下してきた新田義貞とそれを迎え撃つ幕府軍との戦乱(分倍河原の戦)の中で、武蔵国分寺は炎上・崩落しました。
現在、敷石だけが野原の中で昔の面影を残しています。
国分寺周辺は、当時うっそうと茂る武蔵野の森に覆われてた森林地帯と思われます。
しかし、国府が置かれた現在の東京都府中市に隣接していたことで、蝦夷(えぞ)勢力に対する防衛上の理由から武蔵国分寺は重要拠点と見なされたようです。
「国府」とは古代のメトロポリス。飛鳥・奈良・平安時代の律令制体制下における政治軍事拠点でした。
現在、日本の政治経済の中心は東京です。
ですが、当時の東京エリアは、人もまばらな海岸湿地帯であり、関東地方の首都機能は、古代においては「国府」、鎌倉時代から江戸時代以前までは「鎌倉」に多くの機能が集中した。
そのため、国府には古代のハイウェイである「東山道武蔵路」(とうさんどう・むさしみち)が走っていました。
この道路が実に興味深い。
鎌倉は、東日本の多くの重要な街道が交差するハブ的存在で、今で言えばアジアとヨーロッパの各都市を集中的にリンクしているヘルシンキ空港のようなポジションだったと思います。
鎌倉を起点とする重要幹線ルートは、「鎌倉街道」と呼ばれました。
・・今日はこれくらいで。次回は、日本のローマ街道、東山道(とうさんどう)を語りましょう。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-03)
( 武蔵国分寺レイアウト。現代人からすれば普通の巨大なお寺ですが、当時の人々には官庁群的な存在だったでしょう - CG:関東、歴史旅行情報 )
国分寺とは?
武蔵野の中に存在する国分寺市は、当社の所在地です。
新宿から中央線で30分くらいの東京郊外にあります。当社はこの地で創業しました。
国分寺は、もともと農地や林ばかりの土地でしたが、100年前の関東大震災(1923年)後、被災した人々による移住ブームが起き、そこから中央線沿線の武蔵野は急速に変貌しました。
ボクの叔母は、昭和25年(1950年)頃、大阪から武蔵野をはじめて訪れ、あまりの林の多さに「東京のすぐ郊外なのに、恐ろしく林ばかり」で呆れた、と若い頃の経験を聞かせてくれましたが、彼女には武蔵野の美しさは響かなかったようです。
現在の武蔵野は、さらに宅地化が進み「恐ろしく林ばかり」は、もはや見る影もありません。
ずっと昔の国分寺は、古代都市・府中や鎌倉から関東エリアをつなぐ幹線道路上の政治軍事都市でした。
国分寺の地名は、もともと、奈良時代、聖武天皇によってこの地に国分寺が建立されたことがはじまりです。
武蔵国分寺(むさし・こくぶんじ)とは?
武蔵国分寺は、国分寺市内に残る奈良時代の遺跡。
時の天皇・聖武天皇は、仏の力によって五穀豊穣と安定した社会秩序の実現を目指していました。
その壮大な国家プロジェクトの目玉政策が全国の「国分寺」建立構想です。
この地の国分寺は、とくに「武蔵国分寺」(むさし・こくぶんじ)と呼ばれます。
聖武天皇は、全国60カ所以上に国分寺の建立を命じましたが、その中で、武蔵国分寺は、金堂・講堂・七重塔その他からなる大型伽藍で、隣接して尼寺(にじ)も併設されました。
現代で言えば、官公庁が入る大型複合施設のようなものでしょう。
奈良・東大寺の総国分寺とともにとくに規模が大きかったようです。
( 武蔵国分寺跡・・権力を示す巨大建造物が並んでいたが、今は夢の跡 )
1333年、鎌倉幕府打倒を目指して、上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)から南下してきた新田義貞とそれを迎え撃つ幕府軍との戦乱(分倍河原の戦)の中で、武蔵国分寺は炎上・崩落しました。
現在、敷石だけが野原の中で昔の面影を残しています。
武蔵国分寺が、草深い武蔵野に設置された理由
国分寺周辺は、当時うっそうと茂る武蔵野の森に覆われてた森林地帯と思われます。
しかし、国府が置かれた現在の東京都府中市に隣接していたことで、蝦夷(えぞ)勢力に対する防衛上の理由から武蔵国分寺は重要拠点と見なされたようです。
「国府」とは古代のメトロポリス。飛鳥・奈良・平安時代の律令制体制下における政治軍事拠点でした。
現在、日本の政治経済の中心は東京です。
ですが、当時の東京エリアは、人もまばらな海岸湿地帯であり、関東地方の首都機能は、古代においては「国府」、鎌倉時代から江戸時代以前までは「鎌倉」に多くの機能が集中した。
そのため、国府には古代のハイウェイである「東山道武蔵路」(とうさんどう・むさしみち)が走っていました。
この道路が実に興味深い。
鎌倉は、東日本の多くの重要な街道が交差するハブ的存在で、今で言えばアジアとヨーロッパの各都市を集中的にリンクしているヘルシンキ空港のようなポジションだったと思います。
鎌倉を起点とする重要幹線ルートは、「鎌倉街道」と呼ばれました。
・・今日はこれくらいで。次回は、日本のローマ街道、東山道(とうさんどう)を語りましょう。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-03)
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