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香る生活
武蔵野を語るシリーズ・・東山道武蔵路
日本の古代ハイウエイが美しすぎる話・・ (2021/09/04)
( 国府 = 現・府中市まであと数キロ、旅人はこの丘から見える景色に「もうすぐ」という気持ちになったことでしょう - 国分寺市立歴史公開 )
東山道武蔵路(とうさんどう・むさしみち)とは、7世紀の飛鳥時代の頃に畿内から全国へ敷設された官道の一つ。
東山道は、畿内より内陸部を通り、関東・東北に至る大動脈でしたが、武蔵路は東山道を上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)で、武蔵国府(現・東京都府中市)に向かってほぼ直線で南下する東山道の支路です。
( 東山道武蔵路の遺跡。一番上のイラストは、この場所から国府方面を望んだときの空想図。現在は建物が建ち並び、眺望は望めない。この遺跡は当社から数分のところにある )
東山道武蔵路の特徴は、道路幅の広さと直進性。しかも左右の道路端には側溝が設置されています。
側溝は通常、道路からの排水を目的に設置されますが、東山道武蔵路の側溝は、深さに統一性がなく、排水が目的ではないという説が近年有力ですが、ボクは排水設備と信じたい。
日本の道路には側溝の発想が薄く、明治時代になるまであまり見かけない舗装形態でした。
道路幅は12メートル前後。現在でも主要幹線道路になりえる広さ。通行人はまばら、大きな通行物といえば、馬か牛車の時代にこれだけの幅を確保する意図は不明です。
( 東山道武蔵路の遺跡、JR西国分寺駅から数分。この道幅どうよ。この時代になぜ、これだけの道路が必要だったのか? 後世にできる鎌倉街道などはもっと狭く直進性が乏しい道路へと退化する )
( 東山道武蔵路の遺跡に掲げられている看板。所沢から府中までの約15kmの地図ですが、東山道武蔵路の直進性がわかる - 国分寺市立歴史公開 )
ハイウエイの原型とされるローマ帝国アッピア街道は、ときに数十万に及ぶローマ軍を最短最速で紛争地に派遣するための軍用道路でした。
それでも道路幅6メートル、左右の歩道2メートルを足しても10メートル程度の道路幅。それを考えると、東山道武蔵路の12メートルは驚異的です。
道路の直進性は、兵・物資・人が最短最速で移動することを可能にしますが、山あり谷あり、沼地・湿地ありで、簡単な話ではありません。
実際、この後、日本で造られた道路は曲がりくねった狭い道路になっていきます。
ローマ帝国は帝国の隆盛とともに、ローマを中心に地中海全土、北はライン川に至るまでのヨーロッパ全土へとローマ式街道を拡大させました。
直進性、排水のための側溝、突起物がない完全に平らな路面(石畳)、層に別けて違う舗装材で造成された舗装構造など、その設計思想は現代ハイウエイの原型です。
さらに驚くべきことは上下差、つまり「坂」を造らないという設計思想があったことです。
ローマ街道は、行く手に山があれば、削るかトンネルを掘り、谷があれば、石橋の陸橋を造るなど、坂で人々を疲れさせない工夫も施されました。
川があれば橋を架けますが、めがね橋、つまりアーチ状の橋ではなく、道路と同じ高さのまま川を渡れる橋が好まれました。
今で言えば、バリアフリーですね。
紀元前に、社会全体でバリアフリーを実現しようとした設計思想に、ローマ帝国の偉大な先進性の片鱗を垣間見る思いです。
( ローマの橋の例: 二千年の風雨と使用に耐える頑強さと美しさを備える古代橋の傑作「Alcántara Bridge」 道路との落差がまったくない - Wikipedia )
紀元前312年に敷設が始まったアッピア街道は、ローマ軍の通行だけでなく人々の往来も盛んにしました。
オリーブオイル、ワイン、小麦などの物資が頻繁に運搬され経済の発展に貢献しました。
そして、ローマ市民に旅行ブームを起こしたと言われています。
紀元前、アッピア街道沿いにはすでに観光案内所や宿屋が整備されていたことは驚きです。
( ローマ市街で撮影したアッピア街道。もともとは石畳だった。旧ローマ街道は、拡張されたり、現代の舗装に変化しているものが多いが、市街地でも、ところどころいまだ使用されている )
( 紀元前に創られたアッピア街道。「街道の女王」と呼ばれる。現代高速道路のモデルとなった道路。ローマからカプアまでのルートが黒塗りされているが、テッラチナまでの100kmはほぼ直線。途中山地や湿地もあるが、ほぼ直線で通された - ResearchGate )
東山道武蔵路も山があれば削り、沼地や平地があれば盛り土がなされたことが判明している。なるべく上下差をなくす設計思想だったと思われますが、その徹底性はローマに及びません。
しかし、東山道武蔵路の道路幅と直進性は、当時、まぎれもなく世界のトップハイウエイだったと思われます。
東山道武蔵路は、都からの軍隊や使節団や役人の往来だけでなく、人々に利用され、人・物資・情報が行き交う動脈となりました。
武蔵野は、当時、草原と森林が入り交じる草深いエリアだった考えられますが、そんな自然の中で、早い時代から文明と自然が交差するところが、武蔵野の一貫した特徴になっています。
武蔵野の美しさは、自然と文明の交差点にあるのです。
・・今日はこれくらいで。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-04)
( 国府 = 現・府中市まであと数キロ、旅人はこの丘から見える景色に「もうすぐ」という気持ちになったことでしょう - 国分寺市立歴史公開 )
日本の古代ハイウエイ
東山道武蔵路(とうさんどう・むさしみち)とは、7世紀の飛鳥時代の頃に畿内から全国へ敷設された官道の一つ。
東山道は、畿内より内陸部を通り、関東・東北に至る大動脈でしたが、武蔵路は東山道を上野国(こうずけのくに = 現・群馬県)で、武蔵国府(現・東京都府中市)に向かってほぼ直線で南下する東山道の支路です。
( 東山道武蔵路の遺跡。一番上のイラストは、この場所から国府方面を望んだときの空想図。現在は建物が建ち並び、眺望は望めない。この遺跡は当社から数分のところにある )
驚くべき道路幅と圧倒的な直進性
東山道武蔵路の特徴は、道路幅の広さと直進性。しかも左右の道路端には側溝が設置されています。
側溝は通常、道路からの排水を目的に設置されますが、東山道武蔵路の側溝は、深さに統一性がなく、排水が目的ではないという説が近年有力ですが、ボクは排水設備と信じたい。
日本の道路には側溝の発想が薄く、明治時代になるまであまり見かけない舗装形態でした。
道路幅は12メートル前後。現在でも主要幹線道路になりえる広さ。通行人はまばら、大きな通行物といえば、馬か牛車の時代にこれだけの幅を確保する意図は不明です。
( 東山道武蔵路の遺跡、JR西国分寺駅から数分。この道幅どうよ。この時代になぜ、これだけの道路が必要だったのか? 後世にできる鎌倉街道などはもっと狭く直進性が乏しい道路へと退化する )
( 東山道武蔵路の遺跡に掲げられている看板。所沢から府中までの約15kmの地図ですが、東山道武蔵路の直進性がわかる - 国分寺市立歴史公開 )
ハイウエイの原型とされるローマ帝国アッピア街道は、ときに数十万に及ぶローマ軍を最短最速で紛争地に派遣するための軍用道路でした。
それでも道路幅6メートル、左右の歩道2メートルを足しても10メートル程度の道路幅。それを考えると、東山道武蔵路の12メートルは驚異的です。
道路の直進性は、兵・物資・人が最短最速で移動することを可能にしますが、山あり谷あり、沼地・湿地ありで、簡単な話ではありません。
実際、この後、日本で造られた道路は曲がりくねった狭い道路になっていきます。
ローマ街道の先進性
ローマ帝国は帝国の隆盛とともに、ローマを中心に地中海全土、北はライン川に至るまでのヨーロッパ全土へとローマ式街道を拡大させました。
直進性、排水のための側溝、突起物がない完全に平らな路面(石畳)、層に別けて違う舗装材で造成された舗装構造など、その設計思想は現代ハイウエイの原型です。
さらに驚くべきことは上下差、つまり「坂」を造らないという設計思想があったことです。
ローマ街道は、行く手に山があれば、削るかトンネルを掘り、谷があれば、石橋の陸橋を造るなど、坂で人々を疲れさせない工夫も施されました。
川があれば橋を架けますが、めがね橋、つまりアーチ状の橋ではなく、道路と同じ高さのまま川を渡れる橋が好まれました。
今で言えば、バリアフリーですね。
紀元前に、社会全体でバリアフリーを実現しようとした設計思想に、ローマ帝国の偉大な先進性の片鱗を垣間見る思いです。
( ローマの橋の例: 二千年の風雨と使用に耐える頑強さと美しさを備える古代橋の傑作「Alcántara Bridge」 道路との落差がまったくない - Wikipedia )
紀元前312年に敷設が始まったアッピア街道は、ローマ軍の通行だけでなく人々の往来も盛んにしました。
オリーブオイル、ワイン、小麦などの物資が頻繁に運搬され経済の発展に貢献しました。
そして、ローマ市民に旅行ブームを起こしたと言われています。
紀元前、アッピア街道沿いにはすでに観光案内所や宿屋が整備されていたことは驚きです。
( ローマ市街で撮影したアッピア街道。もともとは石畳だった。旧ローマ街道は、拡張されたり、現代の舗装に変化しているものが多いが、市街地でも、ところどころいまだ使用されている )
( 紀元前に創られたアッピア街道。「街道の女王」と呼ばれる。現代高速道路のモデルとなった道路。ローマからカプアまでのルートが黒塗りされているが、テッラチナまでの100kmはほぼ直線。途中山地や湿地もあるが、ほぼ直線で通された - ResearchGate )
東山道武蔵路とローマ街道の共通性
東山道武蔵路も山があれば削り、沼地や平地があれば盛り土がなされたことが判明している。なるべく上下差をなくす設計思想だったと思われますが、その徹底性はローマに及びません。
しかし、東山道武蔵路の道路幅と直進性は、当時、まぎれもなく世界のトップハイウエイだったと思われます。
草原と森林の武蔵野を縦断する文明
東山道武蔵路は、都からの軍隊や使節団や役人の往来だけでなく、人々に利用され、人・物資・情報が行き交う動脈となりました。
武蔵野は、当時、草原と森林が入り交じる草深いエリアだった考えられますが、そんな自然の中で、早い時代から文明と自然が交差するところが、武蔵野の一貫した特徴になっています。
武蔵野の美しさは、自然と文明の交差点にあるのです。
・・今日はこれくらいで。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
(2021-09-04)
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