( 香水工場の )
香る生活
武蔵野の湧水(湧き水)
武蔵野を語るシリーズ (2022/03/22)
( 映画『耳をすませば』のラストシーン。多摩丘陵からの風景がこのイラストのモデルですが、多摩丘陵から見渡す武蔵野台地がいい雰囲気。手前の川は武蔵野の母なる川「多摩川」、今日の主人公。 [スタジオジブリ] )
「武蔵野を語るシリーズ」の5回目の最終回(そして、最終回を惜しむかのように長文)。
今回のテーマは、武蔵野台地の地下を流れている水の話。
地下水? 伏流水?・・見えない世界のことなので、ほとんど関心が行きませんが、知れば武蔵野のことがもっと好きになるかも。
武蔵野は、富士山などの噴火で積もった火山性土壌で覆われている。
この土壌は「関東ローム層」と呼ばれる。
特徴として適度な浸透性と保水性をもっており、雨などは地中に吸い込まれていく。
水はけがよいため地下水を生みやすいが、逆に水田には向かない。
(江戸時代は世界史上、他に例がない「米本位制度」の時代。そんな社会では、水田が作れなければ開拓価値が低い土地とみなされた = 開墾が進まなかった)
武蔵野は、人の手があまり加えられない土地だったが、水が少なかったため、深く大規模な森林帯も形成されなかった。
武蔵野が、歴史を通して、おおむね広大な草原と小規模な森林帯として存在してきた理由もそこにあるのではなかろうか・・
(素人の武蔵野ファンが空想していることで、本当のことはわからない。一説には焼き畑農業がなされていたことが大規模森林が生まれなかった理由)
話は変わる。地方で育った私がはじめて上京したのは大学受験のとき。
受験期間中、中野の親類の家にしばらく居候した。そのときはじめて神田川を見た。
神田川といえば、南こうせつさんの『神田川』。昭和後半の子供たちへのあの曲の影響力は絶大だった。
音楽に疎かった私でさえ神田川の名前は知っていた。
(これがあの『神田川』か・・)
川辺から見た実際の神田川は自分の中のイメージとは何かがとっても違っていた。
コンクリートの護岸、コンクリートの川底・・なんというか、グロテスクで人工的で「ソ連のような」異国情緒を感じた。
川には、ふつう岸のそばに土手があったり道路があったり、のどかな川ならベンチなどもある、そして、家並みは川から少し離れているものである。
神田川はコンクリートの護岸から垂直にそのまま住宅になっていたりする。
歌詞「窓の下には神田川」は、斜め下でなく垂直に下が神田川だったりする。「文字通りじゃないか!」と納得した。
神田川の光景は、そんなわけでボクにとって東京の第一印象の一つになっている。
その後、中央線沿線で暮らしはじめた。
吉祥寺は、学生時代、仲間達と飲みに行った街で、近くの「井の頭公園」でもよく時間をつぶした。
この公園には湧水があり大きな池がある。
就職しても中央線沿線で暮らし続けたが、井の頭公園の湧水が、神田川の水源だったことを知ったのはずっと後だった。
学生の頃、何かのセミナーで東京都小金井市のとある場所に連れて行かれた。
崖の上から、はるか南方に拡がる多摩丘陵(たまきゅうりょう)を望み、太古の多摩川がどのように武蔵野台地を浸食したかという説明を受けた。
10万年の浸食の結果が「今、キミたちが立っている崖だ」という話だった。
(地質学のセミナーだったか?・・一般教養としての受講で専門ではないし、そのときは武蔵野にとくに関心はなく、ぼーっと聞いていた。若い頃は「学べる機会」の価値がわからない、惜しいことをした)
そして、階段を降り崖の麓にある貫井神社(ぬくいじんじゃ)という神社へと連れて行かれた。
境内の奥は崖の麓になっており、その岩間から湧水が盛んに出ていた、美しい清流だった。
そこは地理用語でいえば、谷がはじまる部分「谷頭」(こくとう)に当たると思う。
(私は素人独学で話しているので間違った理解かもしれない)
山によって形成される「谷」ではなく、湧水による崖の浸食による「谷」である。
神社はそこに建っていた。
岩には紙垂(しで=白いひらひらした紙)が巻かれており、神聖な雰囲気が漂っていた。
湧水は、多くの人にとってスピリチュアルなパワーが感じられるスポットである。
(武蔵野はつねに水不足だった、なのに、この豊かなわき水はなんだろう・・)
驚きがあった。
貫井神社は小金井市にあるが、「だから小金井なのか!」と心の中でこの湧水と地名がリンクした。
(「小金井」の由来が本当に湧水から来ているのか不明だが、ありえる話と思う)
セミナーで私たちが立った崖は「国分寺崖線」(こくぶんじがいせん)と呼ばれている。
この日から、なんとなく国分寺崖線と湧水には心惹かれるようになった。
(そして、私は現在、国分寺崖線のとある麓のマンションで暮らしている)
後日わかったことだが、湧水はここだけでなく、この崖が続く一帯に点在し、その流れは小川を生み武蔵野台地を下る。
国分寺崖線が創る小川は「野川」(のがわ)と呼ばれる。
湧水を量産する国分寺崖線と野川は、国分寺付近からはじまり、20キロも南東へ連なる。
野川は二子玉川の大橋の手前で多摩川に合流して消える。
国分寺崖線は成城学園の街並みや二子玉川の高台の街並みを経て、等々力渓谷(とどろきけいこく)周辺で収束する。
(厳密には、国分寺崖線は武蔵村山からはじまり田園調布を超えて東京湾付近まで続くとする説もある)
( 野川。この川は国分寺の湧水から生まれ南東に20kmながれ、二子玉川の大橋手前で多摩川に合流する )
読者のみなさんは、この記事の最初のイラストは何だ?と疑問のままだろう。
あのイラストは『耳をすませば』という映画のラストシーン。
ジブリスタジオさんから借りてきた。
この映画は、多摩丘陵という多摩川の対岸に沿う丘陵地帯にできた新興住宅街が舞台となっている。
映画のストーリーは、好みがあると思うが、舞台になった場所の描写は心打たれる美しさ・リアルさだった。
ラストシーンは、遠くに見える新宿の高層ビルあたりに朝日が昇る場面だった。
彼らが朝日をながめる先が、武蔵野台地全体を俯瞰するような構図になっており、「おお、これが武蔵野台地だ」と言ってくれているような気がする。
(もちろん、制作者側にそういう意図はないと思うが)
ボクらが国分寺崖線で受けたセミナーは、この映画のこの場所から、ほぼまっすぐ北方に10キロの地点にある。
多摩丘陵と国分寺崖線が多摩川を挟んで相対する対岸の崖をなしている。
雫と聖司は、丘陵の高台から武蔵野台地を俯瞰して、自分達の未来を語り合うが、私たちは対岸の高台から10万年前の武蔵野を空想した。
国分寺崖線の湧水について、東京都水道局は、これらを飲料にすることを推奨していないが、地元の人々はお構いなしだ。
当社近くの湧水には早朝からタンクをかついだ人々が水汲みをしている光景に出会う。
話を聞けば「この水で入れるコーヒーはうまい」そうだ。
( 国分寺の湧水。野川の源流の一つ。写真には写っていないが左側に真姿の池(ますがたのいけ)があり弁天様が祀られている。伝説の美女、玉造小町が皮膚の難病を患い、薬師如来の教えに従いこの水で病気を治癒したとされる )
吉祥寺・井の頭公園の湧水が神田川の水源であることを、いつどうやって知ったのか記憶がない。
たぶん本でも読んだのだろう。
それ以降、東京都内を流れる川は、ほとんどが大地から湧き出る湧き水を源流としていると事実に気づいた。
それは驚きだった。川とは山から流れ来るものという常識が自分の中にあったから。
たとえば、黒目川(くろめがわ=目黒区を流れる目黒川ではない)。
黒目川は、東京都小平市から東久留米市・埼玉県新座市・朝霞市を経由して20キロの旅の末、荒川に合流し東京湾へと注ぐ。
この水源地は小平市の小平霊園内とされているので自分の足で見に行った。
湧水そのものは確認できなかったが、この辺から川がはじまることは確認できた。
そして、霊園から荒川までわずか20キロである、健脚なら一日で歩けるが、私は、5回に分けて荒川まで歩いた。
石神井川(しゃくじいがわ)も歩いて確認した。水源地は小金井カントリー倶楽部内の湧水と言われているが、入れないので確認できない。
しかし、周辺の川はすでに枯れており、現在の水源はもっと別にあるという感触を得た。
また小金井カントリー倶楽部の周囲を歩くと、丘陵と坂道になっており、このへんがかつて川だったことは察しがつく。
今は道路となっているが、「かつては川だったと思われる道」を上流に向かって歩くと小学校にたどり着いた。
看板には「鈴木小学校」と書かれていた。
(石神井川のかつての本当の水源地はここで間違いない・・)
と確信させるくらい明確な崖があり谷頭(こくとう)が形成されていた。
鈴木小学校は、崖の下にあり、ここから豊かな湧き水が、かつて吹き出していたに違いない。
水があるところに人が集まり、集落ができる、そして文明が生まれる。
案の定、この地からは多数の旧石器時代の大規模な遺跡が出土している(鈴木遺跡)。
しかし、縄文時代・弥生時代の遺跡は出ていないという、つまり、鈴木小学校の湧水は、旧石器時代に枯れたのではないか。
鈴木遺跡の人々は枯れた湧水ポイントを捨て、湧水を求めもっと下流に移動していったのではないか。
鈴木小学校の湧水は、枯れた水源とはいえ、ここもパワースポット、この学校で学べる子供達がうらやましいと感じた。
東京の川を創る湧水や国分寺崖線などに点在する湧水群・・これらの地下水は、どこから来るのだろうか?・・それらはすべて地下で繋がっているのではないか?と考えるようになった。
武蔵野台地の土壌は、いくつかのレイヤーで構成されている。
一番上のレイヤーが関東ローム層、その下にはかつての”暴れ川”多摩川が運んだ土砂の層 = 礫層(れきそう)が存在する。
礫層は、比較的荒い砂利や石で構成されている。
もともと武蔵野台地は、奥多摩周辺の山岳地帯を、荒れ狂う多摩川が削り、土砂を押し流してできた巨大な扇状地である。
武蔵野台地全体が多摩川の河川敷のような土砂で構成されていてもふしぎでない。
多摩川の伏流水は、小河内ダム(おごうちダム)完成時(昭和32年)までなら、もしかしたら武蔵野台地全体を満たしていたかもしれない。
礫層は粒子間の空間が多く水を通しやすい性質(透水性)がある。
しかも礫層の下は粘土性の土壌があるためこの礫層が地下水を流す帯水帯となる。
武蔵野台地は東京湾まで緩やかな傾斜となっており、礫層が表出したところ、つまり崖の側面などで湧水が出やすい。
武蔵野台地で湧水がある場所として有名なエリアが「70m崖線(がいせん)」「50m崖線(がいせん)」。
文字通り海抜70mと海抜50mの等高線上は、礫層が表出したところでもある。
だから湧水が点在する傾向がある。
野川の水源である日立中央研究所や真姿の池(ますがたのいけ)、上の鈴木小学校・・これらが70m崖線の線上にある。
井の頭池、善福寺池、三宝寺池、南沢湧水などが50m崖線上にある。これらは神田川、石神井川、落合川など形成している。
黒目川や石神井川の流域には、旧石器・縄文・弥生・古墳・奈良時代の遺跡が多い。
国分寺崖線にも古代の人々の遺跡が豊富に出土する。
湧水は雨水が大地に浸透したものもあれば、武蔵野台地の場合、青梅周辺の山岳地帯から降りてくる地下水の場合もある。
あるいは多摩川の川底の下や周辺に染みて流れる伏流水の可能性もあるという。
(伏流水とは、川の流れに沿って川底の下や周囲の地中を流れる水脈)
多摩川と武蔵野台地の地下を流れる水は同じ起源のものだし、武蔵野台地と湧水を創ったのは多摩川である、多摩川は武蔵野の母なる川だと思う。
こんな事情を知るようになって以来、多摩川を渡るとき特別な気持ちになる。
敬意である。
日本の場合、多くの川の水は水源地から海に流れ着くまで数日といわれている。多摩川はもう少しかかると思うが、それでも数十日あれば、海に消えてしまっている。
地下水の流れは、もっとすごい長い年月をかけて地中を旅する。
一説には1日に数m~数10m。仮に1日10m移動するとすれば、奥多摩から東京湾まで約100キロ、27年かけて海に注ぐ。
当社がある国分寺までなら15年くらいだろうか。
人様の記事によれば、武蔵野台地の地下には、水脈が毛細血管のように張り巡らされているという。
血管のその直径は数cmから10cm程度という記載もどこかで見かけたが、礫層を満たす水なので、血管のような形状をしているのか、私には空想しにくい。
管というよりもっと複雑な岩間だらけの空間のような気がする。
どのご家庭にも水道が普及している現代では、直接的に地下水の恩恵を感じる人は多くない。
しかし、何らかの理由、たとえば、テロによる水源地汚染や異常気象による渇水が起きたらどうだろうか?
戦乱や災害・地震が起きたとき、必要な物資は、何をおいてもまず「水」である。
武蔵野台地の地下には地下水が流れており、上水道に万一異変があっても、人々の生命をある程度の期間バックアップしてくる能力があると思うと、地下水の重要性は心に迫る。
震災時に地下水を給水してくれる給水ステーションの数はまだ多くないが、国も東京都もぬかりなく考えてくれていると思う、今後増加すると予想している。
「テロによる水源地汚染」? 「異常気象による水不足」?
数年前なら、過剰な心配に思われたかもしれないが、2年前のまさかのパンデミックが発生し、先月には軍事大国が弱小な軍備しかない隣国に軍事侵攻する時代である、なにがあるかわからない。
いや~長い記事を書いてしまった。
この長文を読んでくれる人は1割にもいないと思うが、万一、読んでくれて、武蔵野の地下水に関心を刺激された人がいればありがたい。
そして、武蔵野の湧水について、もっと知りたいと思う人がいれば、ボクのおすすめは「南沢湧水群」への旅である。
南沢湧水(みなみさわゆうすい)?・・知らない人には、どこか山岳地帯を感じさせる響きではなかろうか?・・これがなんと都心に近い東京の地名なのだ。
西武池袋線「東久留米駅」から徒歩20分、うっそうと茂る森林の中から清流が流れ出ている。
信州の山里に来たかのような風景も懐かしい。
( 南沢湧水群の水が注ぐ落合川、東京の風景とは思えない場所、西武池袋線「東久留米駅」から徒歩15分 )
都市化の影響や地下水の過剰摂取で、武蔵野の湧水地は水量を減らす中、南沢湧水群の豊かな水量は圧倒的である。
メインストリーム級の帯水帯が地下を走っているようだ。
この湧水地には、東京都水道局・南沢浄水所が隣接し、地下水をくみ上げ、それを水道水として一般家庭に給水している。
(おそらく、とってもうまい水に違いない)
東久留米市の東半分のエリアが、この「地下水水道水」でカバーされているという。
実際は、東村山浄水場から引いてくる多摩川水系+荒川水系の水道水との混合水になるので、純粋な地下水による配水ではないが、それでも凄い。
また、南沢浄水所は地下300mからくみ上げるので、その地下水は深層地下水であり、地表の湧水とは性質が多少違うかもしれない。
南沢湧水群は、武蔵野の豊かな湧水の姿を味わえる場所である。
そして、もちろん、ここもパワースポットである。
スピリチュアルなパワーとインスピレーションを授かれる場所でもある。
お近くまで行く機会があったら、立ち寄ってみるのも思い出の一コマになるかもしれない。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
お客様コメント:
2022/06/26 (Sun) 13:44:30
・コメント:
通勤で駅への道程が、武蔵野丘陵を降り(帰りが辛い)黒目川を渡り東久留米駅。なのでとても興味深く読ませて頂きました。
・・ぽんた
(国分) あのへんの丘の上にお住まいでしょうか?東久留米駅周辺は案外起伏に富む丘陵地帯ですよね
読み応えのある記事をありがとうございます。湧水に引かれる性分なので楽しく拝読しました。
東京、思った以上に湧水地があるのですね…!全然知りませんでした。機会があれば記事にある場所に行ってみたいものです。
・・・
(国分) かくも長い長文お読みいただきかたじけなく・・
(2022-03-22)
( 映画『耳をすませば』のラストシーン。多摩丘陵からの風景がこのイラストのモデルですが、多摩丘陵から見渡す武蔵野台地がいい雰囲気。手前の川は武蔵野の母なる川「多摩川」、今日の主人公。 [スタジオジブリ] )
なぜ水の話?
「武蔵野を語るシリーズ」の5回目の最終回(そして、最終回を惜しむかのように長文)。
今回のテーマは、武蔵野台地の地下を流れている水の話。
地下水? 伏流水?・・見えない世界のことなので、ほとんど関心が行きませんが、知れば武蔵野のことがもっと好きになるかも。
水不足だった武蔵野
武蔵野は、富士山などの噴火で積もった火山性土壌で覆われている。
この土壌は「関東ローム層」と呼ばれる。
特徴として適度な浸透性と保水性をもっており、雨などは地中に吸い込まれていく。
水はけがよいため地下水を生みやすいが、逆に水田には向かない。
(江戸時代は世界史上、他に例がない「米本位制度」の時代。そんな社会では、水田が作れなければ開拓価値が低い土地とみなされた = 開墾が進まなかった)
武蔵野は、人の手があまり加えられない土地だったが、水が少なかったため、深く大規模な森林帯も形成されなかった。
武蔵野が、歴史を通して、おおむね広大な草原と小規模な森林帯として存在してきた理由もそこにあるのではなかろうか・・
(素人の武蔵野ファンが空想していることで、本当のことはわからない。一説には焼き畑農業がなされていたことが大規模森林が生まれなかった理由)
神田川との出会い
話は変わる。地方で育った私がはじめて上京したのは大学受験のとき。
受験期間中、中野の親類の家にしばらく居候した。そのときはじめて神田川を見た。
神田川といえば、南こうせつさんの『神田川』。昭和後半の子供たちへのあの曲の影響力は絶大だった。
音楽に疎かった私でさえ神田川の名前は知っていた。
(これがあの『神田川』か・・)
川辺から見た実際の神田川は自分の中のイメージとは何かがとっても違っていた。
コンクリートの護岸、コンクリートの川底・・なんというか、グロテスクで人工的で「ソ連のような」異国情緒を感じた。
川には、ふつう岸のそばに土手があったり道路があったり、のどかな川ならベンチなどもある、そして、家並みは川から少し離れているものである。
神田川はコンクリートの護岸から垂直にそのまま住宅になっていたりする。
歌詞「窓の下には神田川」は、斜め下でなく垂直に下が神田川だったりする。「文字通りじゃないか!」と納得した。
神田川の光景は、そんなわけでボクにとって東京の第一印象の一つになっている。
その後、中央線沿線で暮らしはじめた。
吉祥寺は、学生時代、仲間達と飲みに行った街で、近くの「井の頭公園」でもよく時間をつぶした。
この公園には湧水があり大きな池がある。
就職しても中央線沿線で暮らし続けたが、井の頭公園の湧水が、神田川の水源だったことを知ったのはずっと後だった。
崖の下の湧水
学生の頃、何かのセミナーで東京都小金井市のとある場所に連れて行かれた。
崖の上から、はるか南方に拡がる多摩丘陵(たまきゅうりょう)を望み、太古の多摩川がどのように武蔵野台地を浸食したかという説明を受けた。
10万年の浸食の結果が「今、キミたちが立っている崖だ」という話だった。
(地質学のセミナーだったか?・・一般教養としての受講で専門ではないし、そのときは武蔵野にとくに関心はなく、ぼーっと聞いていた。若い頃は「学べる機会」の価値がわからない、惜しいことをした)
そして、階段を降り崖の麓にある貫井神社(ぬくいじんじゃ)という神社へと連れて行かれた。
境内の奥は崖の麓になっており、その岩間から湧水が盛んに出ていた、美しい清流だった。
そこは地理用語でいえば、谷がはじまる部分「谷頭」(こくとう)に当たると思う。
(私は素人独学で話しているので間違った理解かもしれない)
山によって形成される「谷」ではなく、湧水による崖の浸食による「谷」である。
神社はそこに建っていた。
岩には紙垂(しで=白いひらひらした紙)が巻かれており、神聖な雰囲気が漂っていた。
湧水は、多くの人にとってスピリチュアルなパワーが感じられるスポットである。
(武蔵野はつねに水不足だった、なのに、この豊かなわき水はなんだろう・・)
驚きがあった。
貫井神社は小金井市にあるが、「だから小金井なのか!」と心の中でこの湧水と地名がリンクした。
(「小金井」の由来が本当に湧水から来ているのか不明だが、ありえる話と思う)
武蔵野を走る国分寺崖線(こくぶんじがいせん)
セミナーで私たちが立った崖は「国分寺崖線」(こくぶんじがいせん)と呼ばれている。
この日から、なんとなく国分寺崖線と湧水には心惹かれるようになった。
(そして、私は現在、国分寺崖線のとある麓のマンションで暮らしている)
後日わかったことだが、湧水はここだけでなく、この崖が続く一帯に点在し、その流れは小川を生み武蔵野台地を下る。
国分寺崖線が創る小川は「野川」(のがわ)と呼ばれる。
湧水を量産する国分寺崖線と野川は、国分寺付近からはじまり、20キロも南東へ連なる。
野川は二子玉川の大橋の手前で多摩川に合流して消える。
国分寺崖線は成城学園の街並みや二子玉川の高台の街並みを経て、等々力渓谷(とどろきけいこく)周辺で収束する。
(厳密には、国分寺崖線は武蔵村山からはじまり田園調布を超えて東京湾付近まで続くとする説もある)
( 野川。この川は国分寺の湧水から生まれ南東に20kmながれ、二子玉川の大橋手前で多摩川に合流する )
武蔵野台地を俯瞰(ふかん)する
読者のみなさんは、この記事の最初のイラストは何だ?と疑問のままだろう。
あのイラストは『耳をすませば』という映画のラストシーン。
ジブリスタジオさんから借りてきた。
この映画は、多摩丘陵という多摩川の対岸に沿う丘陵地帯にできた新興住宅街が舞台となっている。
映画のストーリーは、好みがあると思うが、舞台になった場所の描写は心打たれる美しさ・リアルさだった。
ラストシーンは、遠くに見える新宿の高層ビルあたりに朝日が昇る場面だった。
彼らが朝日をながめる先が、武蔵野台地全体を俯瞰するような構図になっており、「おお、これが武蔵野台地だ」と言ってくれているような気がする。
(もちろん、制作者側にそういう意図はないと思うが)
ボクらが国分寺崖線で受けたセミナーは、この映画のこの場所から、ほぼまっすぐ北方に10キロの地点にある。
多摩丘陵と国分寺崖線が多摩川を挟んで相対する対岸の崖をなしている。
雫と聖司は、丘陵の高台から武蔵野台地を俯瞰して、自分達の未来を語り合うが、私たちは対岸の高台から10万年前の武蔵野を空想した。
湧水を飲む人々
国分寺崖線の湧水について、東京都水道局は、これらを飲料にすることを推奨していないが、地元の人々はお構いなしだ。
当社近くの湧水には早朝からタンクをかついだ人々が水汲みをしている光景に出会う。
話を聞けば「この水で入れるコーヒーはうまい」そうだ。
( 国分寺の湧水。野川の源流の一つ。写真には写っていないが左側に真姿の池(ますがたのいけ)があり弁天様が祀られている。伝説の美女、玉造小町が皮膚の難病を患い、薬師如来の教えに従いこの水で病気を治癒したとされる )
湧水が創る東京の川
吉祥寺・井の頭公園の湧水が神田川の水源であることを、いつどうやって知ったのか記憶がない。
たぶん本でも読んだのだろう。
それ以降、東京都内を流れる川は、ほとんどが大地から湧き出る湧き水を源流としていると事実に気づいた。
それは驚きだった。川とは山から流れ来るものという常識が自分の中にあったから。
たとえば、黒目川(くろめがわ=目黒区を流れる目黒川ではない)。
黒目川は、東京都小平市から東久留米市・埼玉県新座市・朝霞市を経由して20キロの旅の末、荒川に合流し東京湾へと注ぐ。
この水源地は小平市の小平霊園内とされているので自分の足で見に行った。
湧水そのものは確認できなかったが、この辺から川がはじまることは確認できた。
そして、霊園から荒川までわずか20キロである、健脚なら一日で歩けるが、私は、5回に分けて荒川まで歩いた。
石神井川の水源
石神井川(しゃくじいがわ)も歩いて確認した。水源地は小金井カントリー倶楽部内の湧水と言われているが、入れないので確認できない。
しかし、周辺の川はすでに枯れており、現在の水源はもっと別にあるという感触を得た。
また小金井カントリー倶楽部の周囲を歩くと、丘陵と坂道になっており、このへんがかつて川だったことは察しがつく。
今は道路となっているが、「かつては川だったと思われる道」を上流に向かって歩くと小学校にたどり着いた。
看板には「鈴木小学校」と書かれていた。
(石神井川のかつての本当の水源地はここで間違いない・・)
と確信させるくらい明確な崖があり谷頭(こくとう)が形成されていた。
鈴木小学校は、崖の下にあり、ここから豊かな湧き水が、かつて吹き出していたに違いない。
水があるところに人が集まり、集落ができる、そして文明が生まれる。
案の定、この地からは多数の旧石器時代の大規模な遺跡が出土している(鈴木遺跡)。
しかし、縄文時代・弥生時代の遺跡は出ていないという、つまり、鈴木小学校の湧水は、旧石器時代に枯れたのではないか。
鈴木遺跡の人々は枯れた湧水ポイントを捨て、湧水を求めもっと下流に移動していったのではないか。
鈴木小学校の湧水は、枯れた水源とはいえ、ここもパワースポット、この学校で学べる子供達がうらやましいと感じた。
武蔵野台地の地層レイヤーと湧水の関係
東京の川を創る湧水や国分寺崖線などに点在する湧水群・・これらの地下水は、どこから来るのだろうか?・・それらはすべて地下で繋がっているのではないか?と考えるようになった。
武蔵野台地の土壌は、いくつかのレイヤーで構成されている。
一番上のレイヤーが関東ローム層、その下にはかつての”暴れ川”多摩川が運んだ土砂の層 = 礫層(れきそう)が存在する。
礫層は、比較的荒い砂利や石で構成されている。
もともと武蔵野台地は、奥多摩周辺の山岳地帯を、荒れ狂う多摩川が削り、土砂を押し流してできた巨大な扇状地である。
武蔵野台地全体が多摩川の河川敷のような土砂で構成されていてもふしぎでない。
多摩川の伏流水は、小河内ダム(おごうちダム)完成時(昭和32年)までなら、もしかしたら武蔵野台地全体を満たしていたかもしれない。
礫層は粒子間の空間が多く水を通しやすい性質(透水性)がある。
しかも礫層の下は粘土性の土壌があるためこの礫層が地下水を流す帯水帯となる。
武蔵野台地は東京湾まで緩やかな傾斜となっており、礫層が表出したところ、つまり崖の側面などで湧水が出やすい。
湧水が集中する70m崖線と50m崖線
武蔵野台地で湧水がある場所として有名なエリアが「70m崖線(がいせん)」「50m崖線(がいせん)」。
文字通り海抜70mと海抜50mの等高線上は、礫層が表出したところでもある。
だから湧水が点在する傾向がある。
野川の水源である日立中央研究所や真姿の池(ますがたのいけ)、上の鈴木小学校・・これらが70m崖線の線上にある。
井の頭池、善福寺池、三宝寺池、南沢湧水などが50m崖線上にある。これらは神田川、石神井川、落合川など形成している。
川や湧水周辺に集中する古代遺跡
黒目川や石神井川の流域には、旧石器・縄文・弥生・古墳・奈良時代の遺跡が多い。
国分寺崖線にも古代の人々の遺跡が豊富に出土する。
武蔵野の母なる川・多摩川
湧水は雨水が大地に浸透したものもあれば、武蔵野台地の場合、青梅周辺の山岳地帯から降りてくる地下水の場合もある。
あるいは多摩川の川底の下や周辺に染みて流れる伏流水の可能性もあるという。
(伏流水とは、川の流れに沿って川底の下や周囲の地中を流れる水脈)
多摩川と武蔵野台地の地下を流れる水は同じ起源のものだし、武蔵野台地と湧水を創ったのは多摩川である、多摩川は武蔵野の母なる川だと思う。
こんな事情を知るようになって以来、多摩川を渡るとき特別な気持ちになる。
敬意である。
数十年かけて流れてくる地下水
日本の場合、多くの川の水は水源地から海に流れ着くまで数日といわれている。多摩川はもう少しかかると思うが、それでも数十日あれば、海に消えてしまっている。
地下水の流れは、もっとすごい長い年月をかけて地中を旅する。
一説には1日に数m~数10m。仮に1日10m移動するとすれば、奥多摩から東京湾まで約100キロ、27年かけて海に注ぐ。
当社がある国分寺までなら15年くらいだろうか。
人様の記事によれば、武蔵野台地の地下には、水脈が毛細血管のように張り巡らされているという。
血管のその直径は数cmから10cm程度という記載もどこかで見かけたが、礫層を満たす水なので、血管のような形状をしているのか、私には空想しにくい。
管というよりもっと複雑な岩間だらけの空間のような気がする。
安全保障から見る地下水
どのご家庭にも水道が普及している現代では、直接的に地下水の恩恵を感じる人は多くない。
しかし、何らかの理由、たとえば、テロによる水源地汚染や異常気象による渇水が起きたらどうだろうか?
戦乱や災害・地震が起きたとき、必要な物資は、何をおいてもまず「水」である。
武蔵野台地の地下には地下水が流れており、上水道に万一異変があっても、人々の生命をある程度の期間バックアップしてくる能力があると思うと、地下水の重要性は心に迫る。
震災時に地下水を給水してくれる給水ステーションの数はまだ多くないが、国も東京都もぬかりなく考えてくれていると思う、今後増加すると予想している。
「テロによる水源地汚染」? 「異常気象による水不足」?
数年前なら、過剰な心配に思われたかもしれないが、2年前のまさかのパンデミックが発生し、先月には軍事大国が弱小な軍備しかない隣国に軍事侵攻する時代である、なにがあるかわからない。
おすすめしたい南沢湧水群
いや~長い記事を書いてしまった。
この長文を読んでくれる人は1割にもいないと思うが、万一、読んでくれて、武蔵野の地下水に関心を刺激された人がいればありがたい。
そして、武蔵野の湧水について、もっと知りたいと思う人がいれば、ボクのおすすめは「南沢湧水群」への旅である。
南沢湧水(みなみさわゆうすい)?・・知らない人には、どこか山岳地帯を感じさせる響きではなかろうか?・・これがなんと都心に近い東京の地名なのだ。
西武池袋線「東久留米駅」から徒歩20分、うっそうと茂る森林の中から清流が流れ出ている。
信州の山里に来たかのような風景も懐かしい。
( 南沢湧水群の水が注ぐ落合川、東京の風景とは思えない場所、西武池袋線「東久留米駅」から徒歩15分 )
都市化の影響や地下水の過剰摂取で、武蔵野の湧水地は水量を減らす中、南沢湧水群の豊かな水量は圧倒的である。
メインストリーム級の帯水帯が地下を走っているようだ。
この湧水地には、東京都水道局・南沢浄水所が隣接し、地下水をくみ上げ、それを水道水として一般家庭に給水している。
(おそらく、とってもうまい水に違いない)
東久留米市の東半分のエリアが、この「地下水水道水」でカバーされているという。
実際は、東村山浄水場から引いてくる多摩川水系+荒川水系の水道水との混合水になるので、純粋な地下水による配水ではないが、それでも凄い。
また、南沢浄水所は地下300mからくみ上げるので、その地下水は深層地下水であり、地表の湧水とは性質が多少違うかもしれない。
南沢湧水群は、武蔵野の豊かな湧水の姿を味わえる場所である。
そして、もちろん、ここもパワースポットである。
スピリチュアルなパワーとインスピレーションを授かれる場所でもある。
お近くまで行く機会があったら、立ち寄ってみるのも思い出の一コマになるかもしれない。
(5) 武蔵野の湧水(湧き水)
(4) 武蔵野を横断する玉川上水
(3) 古代ハイウエイ東山道武蔵路
(2) 国分寺と武蔵国分寺
(1) 武蔵野を語るシリーズ
お客様コメント:
2022/06/26 (Sun) 13:44:30
・コメント:
通勤で駅への道程が、武蔵野丘陵を降り(帰りが辛い)黒目川を渡り東久留米駅。なのでとても興味深く読ませて頂きました。
・・ぽんた
(国分) あのへんの丘の上にお住まいでしょうか?東久留米駅周辺は案外起伏に富む丘陵地帯ですよね
読み応えのある記事をありがとうございます。湧水に引かれる性分なので楽しく拝読しました。
東京、思った以上に湧水地があるのですね…!全然知りませんでした。機会があれば記事にある場所に行ってみたいものです。
・・・
(国分) かくも長い長文お読みいただきかたじけなく・・
(2022-03-22)
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